太田姫稲荷神社 東京のパワースポット-神田駿河台の鎮守-イパネマおやじ
- 太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ)は、東京都千代田区神田駿河台に鎮座する神社です。JR御茶ノ水駅の南側になる神田駿河台は、大学や病院、企業のビルが立ち並ぶ街並みの中にあります。昭和初期まで、この一帯は高級住宅街でした。
- 元々、駿河台は本郷と湯島台とは地続きの丘陵地で、神田山と呼ばれていました。江戸幕府が開かれて、江戸の町づくりのために、神田山を切り崩して江戸城の南に位置する日比谷入江を埋め立てたといわれます。駿河台の地名の由来は、晩年の徳川家康は駿府に移り住んでいました。家康の没後、付き従っていた旗本などの直属の部下(駿河衆)が、その任務を解かれ、江戸に戻った駿河衆がこの地に居を構えたことから、駿河台と呼ばれるようになったと云います。
近隣の街風景:
境内にある御由緒の掲示
神田駿河台の鎮守
太田姫稲荷神社の御祭神
宇迦之御魂神
相殿
菅原道真公、徳川家康公
太田姫稲荷神社のご利益
病気平癒
商売繁盛
境内社 または遺跡(建造物など):金山神社
例大祭:5月第2土曜
太田姫稲荷神社の由緒
社伝によると、太田道灌の娘が疱瘡に罹った際、長禄元年(1457)に京都の一口稲荷神社(いもあらいいなりじんじゃ)を勧請して、旧江戸城内本丸に創建したと云います。その後、天正18年(1590)徳川家康が関東移封により江戸入りしました。慶長11年(1606)に天下普請による江戸城大改築が行われ、当社は江戸城西丸の鬼門になる神田駿河台へ遷される。さらに、昭和6年(1931)御茶ノ水駅の総武線拡張のため、社地が使われることになり現在の場所に移りました。
当社の掲示による由緒:
太田姫稲荷神社は、極めて豊かな霊験伝承と、古い由緒をもつ神社であります。
「駿河台文化史」(昭和十年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀に始まります。
詩才を白楽天に比されるほどの詩人参議小野篁(おののたかむら)が承和六年はじめ伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出港してまもなく海が大そう荒れ狂い身の危険を感じたため、篁は正装をして船の舳に座り熱心に普門品(ふもんぼん=観音経)を唱えていると、白髪の老翁が波上に現れて「荒波から命を守つやるが疱瘡(天然痘=大流行し治療法がなく非常に恐れられていた)を患えば一命が危ない。われは太田姫の命である。わが像を常にまつれば、この病にかかる事はないであろう」と告げ波間に姿を消した。そのお告げを護り自ら翁の像を刻み、護持していた。後に山城国(京都府)の南にある一口の里に神社を祝い祭った。
江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)の最愛の姫君が思い疱瘡にかかり絶望の中、人伝に一口稲荷神社の故事を聞き急使をつかわせ祈願。使者は祈祷の一枝と幣を授かり帰ると、十直の病が癒えた資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立し姫君と共に深く敬拝した。ある時この城の鬼門を守るべしとの神託があり、鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。長禄元年(1457年)のことである。
慶長八年(1603)八月、徳川家康公が江戸城へ入られた後、慶長十一年の江戸城大改築の際、城内より西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移されこの坂を一口坂(いもあらいざか、後に鈴木淡路守の屋敷が出来たので淡路坂ともいう)と呼ばれた。その後代々将軍が崇拝し、修理造営は徳川家が行ったと伝えられている。
明治五年(1872)神社制度により神職司掌とする。
例祭日は毎年四月十八日と定められ、後に五月第二土曜日となる。
大正十二年(1923)関東大震災で類焼、御神体のみ無事に湯島天神に避難する。
大正十四年(1925)仮社殿が落成。
昭和三年(1928)氏子各位の寄進により、本社殿、神楽殿、御水舎、神輿庫、社務所、鳥居等新築される。
昭和六年(1931)御茶ノ水駅、両国駅間の総武線建設のため社地大半を収用され鉄道省より換地として、現在の地を神社敷地に指定。一切の建築物をそのまま移転して今日に至る。
太田姫稲荷神社の基本情報
- 名称:太田姫稲荷神社 (古社名:一口稲荷神社)
- 所在地:東京都千代田区神田駿河台1ー2ー3
- アクセス:【電車】東京メトロ千代田線「新御茶ノ水駅」・丸ノ内線「御茶ノ水駅」、JR中央線・総武線「御茶ノ水駅」各駅より徒歩2~3分。
- 主催ホームページ: