赤羽八幡神社 東京のパワースポット-赤羽地区の総鎮守-イパネマおやじ
- 赤羽八幡神社は、東京都北区赤羽台にある神社です。JR赤羽駅から北へ向かって、7分程歩いていくと赤羽八幡神社が鎮座しています。さらに北へ進むと荒川があり、対岸は埼玉県川口市です。
- 赤羽は、東京の最北にある繁華街として発展した街です。駅の東口は、昭和の風情が残る横丁や商店街は多くの人々で賑わいます。また駅の西口はスーパーやショッピングモールが立ち並ぶ新しい街づくりの進むエリアがあります。当社が鎮座されている場所は、武蔵野台地が関東平野に突き出している東北端にあたり、標高20m程の小高い丘の上にあります。昭和初期までは、赤羽山八幡宮と呼ばれていました。
参道から鳥居を見上げる:
境内社:
境内社:古峯神社
神楽殿:
赤羽地区の総鎮守
赤羽八幡神社の御祭神
品陀和氣命(応神天皇):
帯中津日子命(応神天皇の父):仲哀天皇
息長帯比賣命(応神天皇の母):仲哀天皇の皇后
赤羽八幡神社のご利益
縁結び:
安産祈願:
境内社 または遺跡(建造物など)
古峯神社、赤羽招聘社、北野神社、疱瘡神社、大国主神社、稲荷神社、住吉神社、大山神社、阿夫利神社、御嶽神社、天祖神社、春日神社
例大祭:9月15日
赤羽八幡神社の由緒
- 創建年代は不詳だが、奈良時代~平安時代にかけての、延暦年中(782~806)に、坂上田村麻呂が東征の途次に、当地に陣を敷いて祭神を勧請したのがはじまりといいます。長徳年中(995~999)に源頼光が社伝を再興し、さらに久寿年間に源頼政が修復を加え、応永年間(1394~1428)の頃、地頭であった太田資清が社頭として社伝を再建したと云われます。
- 江戸時代になり、慶安2年(1649)には徳川幕府から7石余の朱印状を拝領、明治維新後には明治5年に村社に指定、昭和7年に郷社に列格しています。
- 当社の掲示による由緒:
- 延暦三年(1200年前)、朝廷より奥州鎮圧を命ぜられた坂上田村麿呂(さかのうえのたむらまろ)が、此の地に陣を張って上の三神を勧請して武運長久を祈願したことにより創建されたと伝承されています。その後、源頼光 頼政 太田道潅一族らの再興修造があり、1552年太田新六郎康資の「八幡禰宜 朝日輿五右衛門殿」宛の寄進状が伝えられています。江戸時代には、赤羽根村 下村 袋村 稲付村 岩淵郷の総鎮守とされました。
- ”時代時代の国策に翻弄され続けた神社”
- 明治16年に上野熊谷間の鉄道敷設によって宝幢院とつながっていた敷地を分断された。明治20年、陸軍工兵大隊の大手町からの移駐先に社殿の後背地を管轄していた東京府から差し出されて供出。明治41年稲付に出来た兵器補給廠と東北本線との武器輸送のために現参道に軍用鉄道敷設。大正には東北上越方面との物資輸送増大で旧参道部分に赤羽貨物駅設置。戦後になって昭和60年東北新幹線と埼京線敷設のため、こんどはお山の腹にトンネル貫通。
- かつて徳川家の庇護や加増もあって、明治の初年ころには四千坪を有する雄社であったが、このように時代ごとの国策の影響をかむって身を削られ続けてきた神社である。これも太古、地の利をもって坂上田村麿が東北地方鎮圧のための拠点と定めた時からの宿命なのか。現在も、時代遅れでとうに建設不要とみられる都道85号線道路計画にまた参道と階段が計画線上に掛り、神社は苦慮している最中である。
- 新編武蔵風土記稿による由緒:
- (赤羽根村)八幡社
當村及下村・袋村・稲付村・岩淵宿等の惣鎮守とす。社領七石餘。慶安二年十月十七日御朱印を賜ふ。延暦年中の鎮座とのみ傳へて詳ならざれど天文二十年太田新六郎康資が領寄附の状あり。其文左の如し。(中略)是に據ても古き鎮座なること知へし。社地に東照宮を勧請し奉れり。其年代詳ならず。 - 社寶
- 古鏡一面。白河法皇の御鏡なりと云、傳ふ裏面の圖左の如し。古鏡一面。後鳥羽院の御鏡と云裏面の圖左の如し。古面一枚。大山祇園命の面と稱す、春日の作と云、圖左に載此餘古面三枚有。獅子頭一箇。是も春日の作と云傳ふ。其圖左の如し。鋒一本。木にて作る長五尺許古物とみゆ。
- 末社
- 神明、春日、稲荷、第六天、香取、熊野、牛頭天王、諏訪、妙義権現、湯殿権現、頼政明神。
- 神主朝日安房。京都吉田家の配下なり。天文二十年の神領寄附状に朝日與五右衛門と見えたれば古き家なる事論なし。此與五右衛門を中興の神職也と稱す。是より第二代を大蔵常永と云。寛永五年九月五日卒す。今の安房まて九代に及へり。
赤羽八幡神社の基本情報
- 名称:赤羽八幡神社
- 所在地:東京都北区赤羽台4ー1ー6
- アクセス:【電車】JR線「赤羽駅」より徒歩10分。
- 駐車場:有り
- 主催ホームページ:コチラ より