新田神社 東京のパワースポット-破魔矢の作られた元祖となる神社-イパネマおやじ

社殿
  • 新田神社(にったじんじゃ)は、東京都大田区矢口に鎮座する神社です。当社の近くを流れる多摩川沿いには、桜並木が整備され、春になると多くの人が訪れる名所となっています。少し上流に架かるガス橋一帯のケヤキ並木も季節の移り変わりとともに景観の楽しめる場所です。
  • 江戸時代の武家屋敷跡を伝える蓮光院や「矢口の渡」跡など歴史的遺産の残る地域でもあります。

武蔵新田駅

最寄り駅の東急多摩川線武蔵新田駅:

羽田空港の風景

最寄りの羽田の風景:羽田空港へは京急空港線が乗り入れ

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新田神社鳥居

新田神社鳥居:

御神木と境内の風景

御神木と境内の風景:

御塚

御塚:義興公の遺体を埋葬したとされる墳墓

稲荷社

境内社:稲荷神社

石にLOVEの彫刻

石にLOVEの彫刻:多摩川アートプロジェクトにより作成された彫刻。撮影すると幸せになれるように願い制作された

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 破魔矢の作られた元祖となる神社

新田神社の御祭神

新田義興公

新田神社のご利益

縁結び・恋愛成就:

厄除招福:

災難消滅:

境内社 または遺跡(建造物など)

稲荷神社:江戸名所図会にも描かれていた歴史ある稲荷社。

御塚:新田義興公の墳墓。直径15mの円墳で、中に入ると祟りがあると伝わる。

パワースポット

御神木:樹齢700年余とされる欅の木。健康長寿に若返り。

例祭日:10月10日

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新田神社の由緒

  • 新田神社は、新田義貞の次男新田義興を御祭神とする神社です。創建されたのは、新田義興公が正平13年10月10日に、多摩川の「矢口の渡」で謀殺され、祟りを鎮めるために村老達が塚を築き正平13年(1358)新田明神社として創建したと云います。延享3年(1743)石城国(現在の福島県)守山藩主松平頼寛が石碑を造立したと云います。第二次大戦終戦まで社格は府社でした。
  • 御祭神の御塚後部には、源氏の白旗を立てたものが根付いた「旗竹」という昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹が生えており、雷が鳴るとこの竹がピチピチと割れたという言い伝えがあります。江戸時代には、エレキテルなどの作成で有名な、蘭学者平賀源内がこの竹で厄除招福・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めました。(※ 当社掲示の由緒より)

当社の掲示による由緒:

清和天皇より六代の八幡太郎義家の嫡孫源義重は上野国新田荘を領し、新田氏を称しました。新田義興公はその七世の裔(えい)新田義貞(よしさだ)公の第二子で、幼名を徳寿丸と申し、元服の折には後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として義興という名を賜り、従五位左兵衛佐に任ぜられました。

義興公は父義貞公の遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力され、延元2年12月(1337年)北畠顕家(あきいえ)卿と共に鎌倉を攻略、翌3年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破されました。正平7年(1352年)には宗良(むねなが)親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫(しばら)く関八州に号令されました。

その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されましたが、武蔵(むさし)・上野(こうづけ)の豪族等に擁立されて再び東国に入られました。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てるが、常に失敗しました。そこで、国清は竹沢右京亮(うきょうのすけ)・江戸遠江守(とおとうみのかみ)らに命じて卑怯な計略をめぐらしました。

竹沢は公家の少将局という身分の高い女房を自分の養女にして、義興公に側女として献じて味方を装い、江戸遠江守は所領の橘樹郡稲毛荘を没収されたので、いっしょに鎌倉で戦おうと誘い出しました。正平13年(1358年)10月10日、江戸氏の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出すと、舟が中流にさしかかる頃、江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げました。舟はだんだんと沈みかけ、ときの声とともに、川の両岸より江戸・竹沢らの伏兵に矢を射かけられ、あざむかれたことを察し、義興公は自ら腹を掻き切り、家臣らは互いに刺しちがえたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込み、主従14名は、矢口の渡で壮烈なる最後を遂げられました。

そして、同年10月23日に悪計加担の渡し守は難船水死し、江戸遠江守は義興公の怨霊姿に驚き、落馬し、七日七晩溺れる真似をして狂い死にしました。その後、足利基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ちたり、竹沢・畠山については、罪悪を訴える者があり、基氏に攻められ諸所流浪の末死にました。

この後も義興公の怨念が「光り物」となって、矢口付近に夜々現われ、往来の人々を悩ました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれて社祠が建てられ、『新田大明神』として広く崇め奉られました。これが新田神社の起こりです。(※大明神とは神様の中でも特に霊験あらたかな御神徳の高い神様をいいます。例 稲荷大明神や神田明神などがあります)

江戸時代に入ると、将軍徳川家の祖先がこの新田家であるということより、松平家から「新田大明神縁起絵巻物(都文化財)」や「新田神君碑(大田区文化財)」の奉納などもあり、武運長久の守り神として、武家信仰の神社として栄えました。その後、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、境内の不思議な篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めました。また、源内は江戸一族の策謀を卑劣なやり方として、この新田神社の縁起をもとに浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口渡」を脚色し、これが当時の江戸っ子の気質と合ったかのように、大変うけて爆発的な大当たりとなり、江戸庶民の新田詣が始まりました。現在でもこの「神霊矢口渡」の一部分が各地の歌舞伎場などで上演されています。

また新田神社が江戸日本橋から約4里(17km)のところにあり、「十万庵遊暦雑記」や「調布日記」などの紀行・案内書類に記されていますように、目黒不動・大鳥神社→池上本門寺→新田神社・十寄神社→古川薬師などへとぬける当時の絶好のハイキングコースのひとつでもありました。その後、明治6年1月に府社に列し、同42年9月には特旨を以て、御祭神に従三位が追贈せられました。

東京都神社庁による由緒:

新田義興公は新田義貞公の第2子で、足利尊氏が謀反を起こしてより、父亡き後、新田一族を率いて武蔵野合戦等を始め各地に奮戦され、吉野町(南朝)の恢復に尽力をされました。そして、終始一貫その忠義を尽くされましたが、正平13年(1358年)10月10日、謀略により、多摩川の「矢口の渡」で壮烈なる最後を遂げられました。

その後、義興公の怨霊が現れたり、夜々「光り物」が矢口付近に現れて往来の人々をも悩ますようになり、そこで義興公の御霊(みたま)を鎮める為に、義興公の墳墓の前に社殿が建てられ『新田大明神』として広く崇め奉られました。

新田神社の基本情報

  • 名称:新田神社
  • 所在地:東京都大田区矢口1ー21ー23
  • アクセス:【電車】東急多摩川線「武蔵新田駅」徒歩3分。
  • 駐車場:有り
  • 主催ホームページ:コチラ より

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